「改めて問う、講和条約と村山談話」
『週刊新潮』’08年12月25日号
日本ルネッサンス 第343回
12月13日、『今あらためて問う! 東京裁判』というシンポジウムが東京千代田区の科学技術館で開かれた。私も講師の一人として参加したが、立錐の余地がない程の熱気だった。
東京裁判に関して、読者の皆さん方にはお正月休みにでも、是非、読んでほしい一冊がある。青山学院大学名誉教授の佐藤和男氏監修の『世界がさばく東京裁判』(明成社)である。日本の戦争を゛邪悪な戦争〟として裁いた東京裁判史観は、日本で根強く定着した観があるが、佐藤氏は、「東京裁判を肯定し」ているのは、実は、日本特有の現象だと、「あとがき」に記した。「東京裁判及び占領政策に関する書籍に徹底して当たり文献発掘に努めた」結果、「意外なほど多くの外国人識者が国際法擁護の立場から東京裁判を批判し、世界的な視野に立って『連合国の戦争責任』を追及している」のとは対照的な日本側の受けとめ方に疑問を突きつけているのだ。
シンポジウムでは、大阪大学大学院教授の坂元一哉氏がサンフランシスコ講和条約の第11条について興味深い指摘をした。第11条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と書かれている。
上の一文中の゛裁判″は英語では゛judgements″である。したがってこの部分は゛判決″でなければならないはずだが、裁判と誤訳された。
「判決」を「裁判」とした誤訳は、東京裁判を正当な裁きと認め、日本断罪の歴史観をも受け入れたうえで、日本は国際社会に復帰したのだという主張の根拠ともなってきた。しかし坂元教授は、それが誤った考えだと指摘したのだ。
「11条の先のくだりは、受刑中の人を日本が勝手に釈放したり減刑したりしないよう、いわば念を押したもので、11条ゆえに日本を悪とする歴史観を日本が受け入れたと見るのは間違いです」
講和条約11条の成り立ち
過去の戦争を、殺し合いも含めて全て許し合うというのが講和条約の性質だ。にも拘らず、日本に対して講和条約締結後も刑の執行を続けよと、懲罰的な条項が盛り込まれたのは何故か。坂元氏がさらに語った。
「米国の原案には講和条約11条に関する記述がありません。日本への懲罰に拘ったのは英国でした。時の宰相吉田茂は、英国発案の11条に猛反発し、勝者の一方的論理で敗者を裁き続ければ、そのことへの反発は、将来極端な反動となって表われかねないと反論しています」
ちなみに、この日本と戦勝国間の交渉については、西村熊雄外務省条約局長(当時)が「西村調書」としてまとめている。坂元氏が続けた。
「(日本が主権を回復した時点で)日本と中華民国が結んだ日華平和条約はサンフランシスコ講和条約を援用しているのですが、その中には11条はありません。もし、11条が東京裁判の意味を伝える重要条文であれば、それを外すことは考えられない。この一事を以てしても、11条は、判決の受け入れと継続を意味するにすぎず、東京裁判自体の正当性を主張したものではないということです」
東京裁判をめぐるこのような外交上の内情は、事柄の性質上、すぐには明らかにされないが、外交史料を保存、整理し、出来るだけ早期に公開することが国家の重要な責務だ。
その点、外交文書を含めて、日本の公文書の杜撰極まる管理が、国際社会において日本の立場の説明や擁護に負の影響を与えているのは間違いない。外交文書の整理と保存が急がれるゆえんだ。
正しいことだと信じられ、世の中に流布されてきた事柄について、その背景を知ることが講和条約についてのみならず、すべての事例についてどれだけ重要か。そのことを実感するためにも、「村山談話」の成立の過程を振りかえりたい。
村山談話はいまや、それへの批判も許されない聖域扱いだ。保守本流と見られた安倍晋三氏も、これまた保守の位置づけの麻生太郎氏も、歴代政権は村山談話の継承を明言した。田母神俊雄前航空幕僚長は、村山談話に反する歴史観を発表したとして問答無用で解任された。
ではその村山談話は、どれ程、立派なものなのか。
村山富市氏は94年6月に自社さ連立政権で首相となった。翌95年は戦後50年の年だ。社会党委員長を首相として迎え入れる世紀の妥協をした自民党は、政権政党であり続けるために、より一層、社会党的価値観の受容に走った。そのひとつが戦後50年の節目に出された゛国会における謝罪決議″だった。
騙し討ちの村山談話
この件については『諸君!』2005年7月号に西村眞悟氏が詳述している。氏は次のように書いた。
自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決されることが明白になった。すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。その隙を狙ったかのように、土井たか子衆院議長が金曜日の午後8時近くという遅い時間に本会議開会のベルを押したという。
結果として265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。だが、参議院は採決を見送った。これでは折角の決議の権威もない。評価もされない。そこで首相らは次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。
95年8月15日、村山氏は学者や谷野作太郎内閣外政審議室長ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、古川貞二郎官房副長官が読み上げた。この間の経緯は、「閣議室は水を打ったように静まり返った」と報じられた。事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論出来ていない。自民党にとって、このことこそが痛恨の一事だ。
首相は談話を出すに当たって記者会見に臨んだ。その席で、「談話で日本が過去に国策を誤ったとして謝罪したが、具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているのか」と問われ、村山首相は絶句した。
国会決議の卑劣な出自。自らの談話も具体的に説明出来ない空ろな首相。村山氏の政治家としての、否、それ以前に、人間としての資質は、知れば知るほど、興醒めである。
社会党時代、長きにわたって氏は自衛隊を憲法違反だと非難した。首相になった途端に合憲だと主張を変え、自衛隊員に国家防衛の崇高な任務に励めと訓話した。しかし、首相を辞して社民党に戻ったら、またもや自衛隊違憲論に戻ったのだ。国家の重要事に関して二転三転した節操なき人物の談話を後生大事にするほど、日本人は愚かではないであろう。